賽銭盗    


町田 雅之

 古い町にはお地蔵さんを祀ってある路地が少なくない。長男が幼く死んだせいで地蔵信仰に出会い、 名ばかりではあるが小さな地蔵堂の管理者ということになっている。
お堂には賽銭箱が置いてあり、決して人通りの少ない場所ではないのだが、あるとき賽銭盗に遭った。出来心以上の強引な手口であったので、警察のご厄介をあおぐこととなったが、かなりたち、事件もほとんど忘れていたある夕方、三組の母子の訪問をうけた。
「地蔵堂の賽銭のことでは、迷惑をかけました。」と謝罪にみえたのは、9人の中学生の「犯行」だったらしいのだが、そのうちの3人とそれぞれの母親であった。私にも中学生の子どもがいる。さらに困ったことに、犯行そのものへの憎しみがそれほどあるわけでもない。わが子の「犯罪」に恐縮する母親たちの姿は、いつ自分の姿になるのかもわからない。
 彼等が将来もっと大きな間違いを犯さないためにも、一人の大人として毅然と接するべき、という気持ちと、付き添う母親たちのおそらくはいたたまれない気持ちを斟酌して、「被害者」の心は揺れ動いた。この子たちに「出来心」を起こさせた賽銭箱の在り方に問題はなかったのか。
 最近、消費者金融のシンボルになった感もある「お地蔵さん」は、もともと子どもを思いやる親の心が形になったものであろう。その前で子どもが犯した「出来心」に対して、どう接することが、お地蔵さんの意に添うことになるのだろうか。ここでの私たちの出会いを、今はとても幸運とは呼べないだろうが、少なくともこの子たちの心に傷を負わせるだけのものになって欲しくはなかった。
 数週間後、近所のスーパーでそのときの母親のひとりと出会い、にこやかにその後の経過をまじえた挨拶をかわすことができたのは救いであった。

1998.8.7掲載

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