「美しいこころをもって」

                                                 町田 雅之
 1898年9月1日、平戸市崎方町の平戸オランダ商館のあった一角に産声をあげた男の子がいた。ちょっと前のものまねブームの頃、『別れのブルース』を歌う淡谷のり子もずいぶんはやったようだが、この「窓をあければ・・・」という歌詞で一躍有名になったのが、この男の子、のちの藤浦洸である。まさか、そこで見えたのが平戸港だと言う人はいまいが、自筆原稿には「本牧ブルース」というタイトルが書かれている。
 平戸市では、その生誕からちょうど100年を迎える1998年9月1日、藤浦洸がともに慶応の出身であることから初代の後援会長をつとめた、ベテラン男声コーラスブループ「ダークダックス」による記念コンサートを実施した。
 ダークダックスは7年前、川棚の我楽多会のお世話を受けて、平戸でのコンサートをしたことがある。そのとき、平戸に到着したメンバーの第一声が「藤浦先生のお生まれになった家はどこですか」であり、この予期しない質問に、私も絶句した覚えがある。現在、生家跡は更地になっている。ただ史跡の指定のため、一切の人為を許されず、簡素な顕彰さえままならない状態であることが、一方ではオランダ商館の復元を願う一人としても、なんとも歯がゆい。
 そして、それほどの足跡を残した人でありながら、その生家どころか、わずかな間にその存在さえ希薄になっているということにもまた愕然とならざるを得ない。このふるさとは、詩を通じて多くの人に感動を与えた一人の存在と、それに代表される芸術への関心を失ってしまったのだろうか。
 共演の後は、ダークダックスによる藤浦洸コーナー。完全にパッケージ化されていたコンサートの内容が、私たちの予想を越えて変更されていた。それほどに両者の縁は深かったのに違いない。ステージに掲げられた遺影の前で、氏の多くの作品の中から選ばれた「一杯のコーヒーから」「慶応応援歌」「別れのブルース」「水色のワルツ」の4曲が、多くの思い出話しとともに披露された。
 モノやカネが価値のモノサシであることへの疑問はよく聞くようになってきた。癒しの場にふさわしく、自然のみならず、人が創り出したものも含めて、美しいものを愛する心が息づく地域となれるかどうかが、この地域の生き残りの大きな課題ではないかと、氏が訴えているように感じたステージであった。

生月自然の会会報「えんぶ」32号(98年9月発行)に掲載
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